3月に入りどこの球団共にキャンプの1次クールを終え実践に重きを置いてセカンドクールオープン戦へと開幕へ向けて準備が着々と進んでいますね。
昨年のセ・リーグ覇者は一昨年同様広島カープが連覇しましたがカープを苦しめたのは一昨年の最下位から監督を小川淳司氏に戻しメジャーリーグから青木宣親氏が帰ってきたヤクルトスワローズでしたね。
バレンティンに山田哲人だけでホームランも70本くらい期待できるチームですから怪我さえなければ強いですよね。
そんなヤクルトスワローズの1980年代のレジェンドOB選手達もやはり個性に溢れています。
プロスピAで是非とも使いたい1980年代のレジェンド達でスターティングメンバーを組んでみましょう。
この記事の目次
ヤクルトスワローズの超暗黒時代を支えた投手陣
1990年に野村克也氏が監督に就任してID野球と称されるデーターを駆使して投手の配球や打者の狙い球を攻略する考える野球を提唱し9年間でリーグ優勝1回日本一3回の成績を挙げた1990年代が黄金時代で有るとすれば1980年代のヤクルトスワローズは最下位4回の万年Bクラスまさしく暗黒時代と呼ばざるを得ない低迷期でした。
そんな低迷期を支えた投手陣の2人のエース投手が尾花高夫氏と梶間健一氏ではないでしょうか。
1970年代にエースとして活躍した松岡弘氏が1980年代に入ると1980年に13勝を挙げ防御率2.35で最優秀防御率のタイトルを獲得し健在ぶりをアピールする中、右のエースは尾花高夫氏へと移行していきます。
1982年から4年連続の2桁勝利で82年と84年には12勝、14勝とチーム内最多勝利を挙げています。
コントロールが良く一度も押し出しのフォアボールを出したことがなく連続の非押し出し記録を持っています。
好投手であるのに勝ち星が少ないのは残念なことに好投してもバットの援護が少なかった為です。
82年と88年に16敗してるもののどちらの年も防御率は2点台と打撃陣の援護があればもう少し勝ち星も増えたかもしれませんね。
右のエースが尾花氏ならば左のエースは梶間健一氏でしょう。
小柄ながら大きく曲がるカーブとスローカーブを駆使して1980年にはチームの勝ち頭15勝を挙げその後も83年から3年連続で2桁勝利を挙げています。
常にピッチャープレートの左に立ちサイドスローとオーバースローを使い分け変幻自在の投球で打者を翻弄しました。
球速は130キロ台ながらも丁寧にコーナーを突く投球術は左打者には相当厄介だったようで得意にしていた阪神の掛布雅之氏も梶間さんのカーブは背中の後ろから来るので怖かったと舌を巻くほどでした。
1980年代のヤクルト暗黒時代を救った華
1980年の2位を最後に低迷を続けていくヤクルトに華が咲いたのは1982年に甲子園のアイドル荒木大輔氏が入団した事でしょう。
早稲田実業高校で1年生の時から甲子園に出場し準優勝投手として注目を集め全ての出場機会で甲子園のスタートして注目を集めました。
3年目の後半から先発ローテーションに入り翌年の1986年1987年には開幕投手を務めオールスターにも出場し好成績を収めています。
87年には10勝を挙げて更なる活躍を期待されたのですが肘の故障で手術を受けることになりその後も復帰を焦ってリハビリが上手くいかず再手術を余儀なくされ90年代に復活するまで苦しい時を過ごされたことと思います。
しかし万年Bクラスと低迷する中で荒木大輔氏はヤクルトファンの希望であったような気がします。
1989年には1990年代に大活躍する川崎憲治郎氏がルーキーとして23試合に先発して4勝しています。
ルーキーイヤーに開幕投手に指名された高野光氏も先発ローテションに必要な選手ですね。
ルーキーイヤーの84年から150キロ近いストレートを武器に10勝挙げ86年には12勝、88年までコンスタントに勝ち星を挙げてチームに貢献しました。
中継ぎ陣は阿井英二郎氏やアンダースローの宮本賢治氏に左腕の加藤博人氏もスピードボールはないもののキレの良い変化球を持ち味に大車輪の活躍を見せました。
そして投球だけでなくパフォーマンスや喋りが注目された内藤 尚行氏(ギャオス内藤)は140キロ前後のストレートとスライダーフォークを武器に1989年には12勝8セーブの成績を残しました。
抑えは伊東昭光氏が適任ではないでしょうか。
先発しても87年にはチームの勝ち頭14勝を挙げ抑えに回った88年には抑えのみで18勝を挙げ最多勝を獲得しています。
140キロオーバーのストレートを武器にスライダーとフォクを上手に使って打ち取るイメージですね。
他にも中本 茂樹氏や矢野 和哉氏にギブソン大川 章氏等も居ましたが今回の1980年代ヤクルト暗黒時代の投手陣はこのメンバーでどうでしょう?
投手陣をリードするキャッチャーはこの時代に2度転換気がやってきましたね。
一度目は大矢明彦氏から 八重樫幸雄氏へと変わり2度目は八重樫氏から秦真司氏に変わっていきました。秦氏もパンチ力のあるバッティングで後に活躍しますがこの時代はやはり八重樫氏がキャッチャーとしてのイメージが強い気がします。
プロスピAで使いたい最強OBヤクルト野手編
1978年に広岡達郎氏が率いて日本一になってから1992年に野村克也氏がセ・リーグ制覇翌年の日本一に輝くまで超暗黒時代を突き進むヤクルトですが選手は好選手や特徴のある豪快な選手が揃っていました。
まず大杉勝男氏でしょう。
張本功氏や野村克也氏などバッティングセンスの塊のような人たちからバットコントロールとバッティングセンスは大杉氏に勝るものは居ないと言わしめるほどの技術の持ち主でセパ両リーグで1000試合に出場し両リーグで1000安打し両リーグで200本塁打も後1本というところまで記録する超人です。
「最後に、わがまま気ままなお願いですが、あと1本と迫っておりました両リーグ200号本塁打、この1本をファンの皆様の夢の中で打たして頂きますれば、これにすぐる喜びはございません」
という心に残る挨拶を引退セレモニーでしています。
ひょうきんな人柄でホームランを打った後ファンに投げキッスをするなどサービス精神も旺盛な選手でした。
1980年代の前半の中心選手4番は大杉勝男氏1択でした。
その大杉氏とクリーンナップを務めたのが3番若松勉氏と5番杉浦 享氏です。
若松氏は168㎝168と小柄ながらシュアなバッティングでヒットを量産しホームランも220本生涯で打っています。
現役生活をヤクルト一筋で19年続け通算打率.31918は歴代2位の成績で日本人としては最高の記録で安打数も2,173本で勿論名球会です。
杉浦 享氏はヤクルトファンが応援する際職人肌の選手のみに使用する「必殺仕事人のテーマ」で応援されるいぶし銀の選手でしたね。
大杉氏が引退した後4番を任され85年には34本塁打で打率も.314の好成績を残しています。
80年代中盤になると若手が抜擢されるようになり後の黄金期を牽引する広澤克己氏や池山隆寛氏が頭角を現していきます。
HI砲やHIイケトラコンビ等と呼ばれヤクルトの主軸を担うようになります。
88年には広広澤氏は打率.288、本塁打30本、打点80の成績を残し4番の役割を果たし、池山氏は本塁打31本打ちこの年から5年連続で30本以上のホームランを打ちました。
センターには後の監督小川淳司氏セカンドには守備職人水谷新太郎氏に本来ヤクルトのこの時代のサードと言えば角富士夫氏ですがうっかり忘れていたので今回は助っ人外国人です。
暗黒時代1980年代のヤクルト助っ人外国人OB
この時代のヤクルトの外国人と言えば阪急からやってきたボビー・マルカーノ氏にヤクルトから近鉄へ行き再びヤクルトのチャーリー・マニエル氏やロッテから大洋ヤクルトのレオン・リー氏等日本のセパ両リーグで活躍した助っ人外国人が数多く在籍してましたね。
複数年に渡り日本球界で活躍し成績を残してインパクトも絶大でしたね。
あまり成績を残せず1年で帰国する助っ人外国人も当然居たりしました。
バリバリのメジャーリーガーのデシンセイ氏やブリッグス氏やラリー・ハーロー氏にブロハード氏があまり活躍できず単年で帰っていく中やってきたボブ・ホーナー氏は来日から僅か4試合で11打数7安打6ホームランで最終的に一体どのくらい打つのかっとすごく期待されましたが結果93試合で打率.327、31本塁打、73打点という成績でした。翌年もヤクルトは契約しようとしたがホーナーはメジャーリーグに帰ってしまいました。
ワニを食べる男のラリー・パリッシュ氏も42本塁打を打ってホームラン王に輝いたものの1年間でヤクルトを去っています。
1980年代のヤクルト最強OB個性派控え選手
この時代のヤクルトと言えばミスターの息子一茂でしょう。
長嶋一茂氏は守備に難もありましたが長打力のあるバッティングが魅力の選手でしたね。栗山英樹氏は若松勉氏にスイッチヒッターになるよう勧められ猛練習でものにして打率.301をマークする活躍を見せました。
他にも笘篠賢治氏に荒井幸雄氏に渋井敬一氏等小粒ながら好選手がたくさんいますね。
80年代OBはどのチームも個性的な選手ぞろいでどのOBがプロスピAに登場しても何とかガチャで手に入れて使用してみたいと思いますね。
今後も熱く個性的なOBの登場を心から願っています。